幸山明良 自己紹介

動物が好きで酪農家をめざした、最初の気持ちを大事にしてたどりついたのが、山地酪農です。自分ひとりだけでなく、家族や地域の人、ぼくの牧場を訪れたり、牛の乳製品を食する人みんなが幸せになることを願っています。

動物好きが酪農家を夢見て

幸山明良(こうざんあきら)といいます。岐阜生まれです。新規畜産就農希望者は、動物や生命が好きで志す人がほとんどですが、僕もその一人。幼い頃から動物が好きで、将来は牧場を経営したいという夢を持ち、岐阜県立農業大学校を経て、明治大学農学部農業経済学科に進学しました。

学生時代には、放牧、小規模な家族経営の牧場、乳業、山地酪農などたくさん見て回りました。重機から手道具までを扱い、自然の中で自力でものごとを解決していく酪農家を見て、かっこいい!と思いました。が、その一方で経済性と動物や人の幸せとが矛盾する日本の酪農のありかたに対して疑問も感じたのです。それ以来「経済動物って何なのか?」を考え続けて今に至っています。

人も動物も幸せがいいのに・・

日本では、現在、牛は放牧ではなく畜舎飼い。移動の自由はなく、一生をほぼつながれて生きています。牛は本来草食ですが、乳量を増やす目的で穀物飼料を食べさせられているので、草食の放牧牛に比べて搾乳量は多いのですが、運動不足や過密な飼育によるストレスなどから病気になりやすいし、搾乳量が減る5、6歳になると「乳廃牛」として屠殺、食肉利用される運命にあります。

畜舎での給餌と糞尿の処理に追われる酪農家の仕事は3Kと言われるきつい仕事で、人(経営者と労働者)も牛も、乳量を最優先に、畜舎はあたかも牛乳生産工場のような、無機的で非倫理的な様相を呈しています。牛は乳を出すだけ。人間も搾乳するだけ。生命の通う現場とは程遠いのです。しかし、こうした状況に対して、残念ながら農林水産省は見て見ぬ振りで、改善に取り組もうという姿勢はほとんどありません。

規模拡大路線に走った経営体ほど、家畜の飼養状況は劣悪となる一方で、牛に優しい、環境に配慮した酪農家は次々に廃業していくのが現実です。大多数の酪農家は牛が大好きなのはずなのに、牛も自分自身も、経営という名のもとに「酷使」をしているのです。

酪農家を取り巻く環境・社会構造へ不信感をいだいた僕は、牛も人ものびのびとした生き方ができる社会を目指したいと心から思うようになりました。

中洞牧場で山地酪農と出会う

大学を卒業するにあたり、まずは出会った酪農家の中でいちばん信頼できる親方のもとで修業しようと決めました。めざしたのは、岩手県で山地酪農を実践している中洞牧場(なかほら ぼくじょう)です。マニュアルもない中で、試行錯誤して創意工夫をする中洞さんの姿には、学生時代にも滞在研修で訪れた時に強い魅力を感じていました。

ここでは牛は山で通年放牧されています。外で草を食べ、排泄し、眠ります。畜舎はなく、乳が張ると、搾乳舎に自分でおりてきます。外で、自然に出産をします。それ以外の時間は、思い思いに草を食み、自由に生きています。

「アルプスの少女ハイジ」でもおなじみですが、ヨーロッパでは、このような放牧スタイルが普通です。これが本来の牧場のあり方で「山地酪農」といいます。ヨーロッパでは、夏場はアルムと呼ばれる山の上の方で放牧をし、冬になると寒さが厳しいので里におりてきますが、中洞牧場では昼夜通年放牧をしていました。真冬は雪も降り、気温もかなり低い厳しい環境の中ではありますが、その中で暮らす牛たちに魅力と生命力を見て、そのような牧場を営む人と牛とのハーモニーに美しさを感じました。

しかも中洞牧場では、自らの手でプラントをつくり、ノンホモ低温殺菌牛乳、ヨーグルト、アイスクリームを加工し、販売も自ら行っていました。商品だけでは届けず、牧場新聞を発行し、その時その時の牧場のリアルなストーリーを消費者に紹介していました。

大学を卒業した僕は、中洞牧場に就職し、将来的には独立してこのような牧場を経営することをめざして約4年間の修業を積みました。

中洞牧場で働いている時に出場した「宮古サーモン・ハーフマラソン大会」。その2012年のプログラムに、僕の写真がでかでかと載ってました。

中洞牧場で一緒に働いていた仲間たち

独立して熊本へ! しかし震災で中座

中洞牧場で出会った妻と結婚し、彼女の実家の熊本県菊池市で牧場をはじめようと独立しました。そこでまずぶつかったのが、牧場にする山を入手することの難しさでした。広い面積を一人が一筆で持っているということがない、山林の価格があってないようなものだったり、そもそも役場が山林の所有者を把握していないという現状の中で、それでも4.2町歩の土地を得て、2頭の牛を飼い、スタートを切りました。

山に牛を放した頃の写真

ところが、2年後、熊本地震で被災。その山は災害指定区域となり、牧場として使うことができなくなってしまいました。ところが、震災で2カ月不在にしていた山の放牧地で、牛はしっかりと生きていました。これには自然の中で生きる牛の生命力を実感しました。

被災したことだけでなく、その頃、家族で生きることと山地酪農の夢との両立の難しさを感じてもいました。折しも「長野の根羽村で山地酪農をやってみない?」と中洞牧場つながりで出会った信州大学農学部の内川義行先生から声をかけられたことをきっかけに、思い切って新天地をめざそうと、僕は決めました。

根羽村へ!
Happy Mountain計画

そんなご縁で、今、ぼくは家族を熊本に残して、根羽村にやってきて、根羽の村役場、森林組合、村民のみなさんにお世話になりながら、山地酪農に取り組んでいます。村有林を借りて、牛を放牧したのが2017年11月。まだ山林を開墾しているところなので、牛は近隣の耕作放棄地を転々として、草を食べています。

おじいちゃんやおばあちゃんが「可愛いね」と言って、頻繁にお茶休憩に誘ってくれたり、ひとり暮らしの夕飯をごちそうしてくれたりします。信大農学部の農村計画学の授業で学生たちに山地酪農の魅力を話したら、90名中30名が見学に来たいと言ってくれます。他にも知らない人からの問い合わせや研修生が来てくれています。こんなにも期待してくれていることに驚きと喜びを隠すことができません。

見学に来てくれた人に説明をしているぼく。
右側は信州大学農学部の内川義行先生(山村計画学)

構想している山地酪農の牧野(ぼくや)の名前は「幸せの山 Happy Mountain」。自分の名前そのままですが、牛も人も幸せになれる、たくさんの人にその様子を見て幸せになってもらえるような、公園のような場所にしたいと思っています。

根羽村の保育所の子どもたちが来てくれました。